アフィリエイト広告を利用しています

『ペチカ』歌詞に込められた温もりと、北国の情景を分かりやすく解説します

ペチカって、今ではあまり聞きなれない言葉ですね。

ペチカとは、薪を焚いた時に出る熱を本体レンガに蓄熱する暖房器具のことです。
レンガで積まれた本体の中には、熱が蛇行して登っていく空間があり、熱はその空間を通って煙突から出るまでの間に、本体レンガに蓄えられます。
そして火が消えてしまった後でも、レンガに蓄えられた熱が長時間にわたり室内に「輻射熱」として放出し続けるため、真冬の厳冬期でも、朝・夕の2回焚くだけで、24時間通して心地よい暖かさが続きます。
信州のような寒冷地には大変適した暖房器具といえます。現在でも使われている家や、取り扱っている業者もあるようです。

ペチカについて

歌にもあるペチカですが、ペチカについて、簡単に説明したいと思います。

ペチカはで暖炉兼オーブンのことです。標準的なスタイルの暖炉全般を指す語です。
ペチカ形式の暖房設備はロシアの近隣国でも広く見られます。日本では特にロシア式暖炉のことを指し、改良され北海道などで使用されています。ペチカは暖炉や薪ストーブと同じく薪や石炭を燃料として用いますが、使用法は全く異なります。本格的に運用するには2 – 3日以上火を入れ、上でパンを焼いたり、温めたり調理も出来ます。

「ペチカ」ってどんな歌?

「ペチカ」は北原白秋が作詞し、山田耕筰が作の名コンビによりつくられました。大正13年〈1924年)に 当時の「南満州教育会」からの依頼により、満州(現在の中国東北部)を訪れた二人が、現地の厳しい冬とその生活を題材に制作しました

そのメロディが流れてくると、目の前にしんしんと雪が降り積もる異国の情景が浮かび上がります。

この歌に描かれているのは、厳しい冬を越す北国(満州)の暮らしです。外では「雪の窓辺」が白く染まり、冷たい風が吹いていますが、家の中には赤々と燃えるペチカがあります。

「雪の窓辺に 火を点して」というフレーズからは、ただ部屋を温めるだけでなく、凍える夜にそっと灯る「心の安らぎ」が伝わってきます。ペチカは、家族が肩を寄せ合い、栗を焼いたりお話をしたりする、団らんの中心だったのでしょう。

どこか切なく、それでいて懐かしく温かい旋律。それは、冷え切った体をじんわりと包み込むレンガの熱そのもののようです。現代の便利な暖房器具にはない、時間をかけてゆっくりと温まる「冬を慈しむ時間」が、この短い歌の中には大切に閉じ込められています。

「ペチカ」の歌詞

1,雪のふる夜はたのしいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ
むかしむかしよ 燃えろよ ペチカ

2,雪のふる夜はたのしいペチカ ペチカ燃えろよ おもては寒い
栗や栗やと 呼びます ペチカ

3,雪のふる夜はたのしいペチカ ペチカ燃えろよ ぢき春来ます
いまに楊(やなぎ)も 萌えましよ ペチカ

4,雪のふる夜はたのしいペチカ ペチカ燃えろよ 誰だか来ます
お客きゃくさまでしよ うれしいペチカ

5,雪のふる夜はたのしいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ
火の粉ぱちぱち はねろよ ペチカ

この曲は大正14年に出版された童謡詩集「子供の村」に収められました。
当時の満南州教育会用に創作されたものですオ。異国情緒あふれるペチカに題材を求め、
その言葉を繰り返し用いることで、白秋はきわめてファンタスチックな世界を作り上げました。

歌詞の情景とキーワードの解説

歌の中には、異国情緒あふれる独特な言葉が登場します。

  • ペチカ(ロシア式暖炉) ロシア語で「暖炉」や「オーブン」を意味します。レンガを組み上げた大きな暖炉で、一度温まると冷めにくいのが特徴です。歌の中では、家族が身を寄せ合い、昔話を聞く温かな場所の象徴として描かれています。
  • 「栗や 栗や」の呼び声 2番に登場するこのフレーズは、台所(厨房)のことではなく、外を歩く**「焼き栗売り」の掛け声**です。白秋自身、満州の雪道で聞いたこの声を印象的に捉えていたと言われています。
  • 「柳の芽も吹き出そう」 3番では、春の訪れへの期待が歌われています。満州では、春になると柳が芽吹くのが季節の変わり目のサインであり、厳しい冬を乗り越える人々の希望が込められています。

楽曲の特徴

  • 音楽的な工夫 山田耕筰は、ロシア語の発音に近づけるため、楽譜に「ペィチカ」と発音するように指示を書き込んでいます。哀愁を帯びつつも、どこか懐かしく温かいメロディが、冬の夜の静けさを表現しています。
  • 時代背景 かつて日本の統治下にあった満州へ移住した人々の生活を支え、慰めるために作られた「満州唱歌」の一つでもあります。

ペチカの作詞・作曲者

作詞者: 北原白秋(1885年 明治18年~ 1942年 昭和17年 52歳死去)

1885年年熊本県玉名郡(現 :南関町)に長男として生まれ、まもなく現在の福岡県柳川市にある家に帰りました。北原家は当時は酒造を業としていました。

1891年、矢留尋常小学校に入学。中学に進むも、成績下落で落第し、このころから文学(詩歌)に熱中するようになりました。後に父に無断で退学し、早稲田大学英文科予科に入学しました。このころには「白秋」の号を用いていました。『早稲田学報』懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになりました。

1906年新詩社に参加して、与謝野鉄幹、与謝野晶子、石川啄木らと知り合う。

※新詩社(しんししゃ)は、明治32年(1899年)に与謝野鉄幹(よさのてっかん)を中心に設立された詩歌結社で正式には東京新詩社と呼ばれました。詩歌の革新を掲げ、浪漫主義文学の拠点となり、明治・大正の詩歌史に大きな足跡を残しました。

『早稲田学報』懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。この頃に少年時代に南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出すことになりますこの頃に少年時代に南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父が亡くなったそうです。身近な人の影響は、知らない間に受けていたりするものだなあと思いました。

1937年(昭和12年)、糖尿病、腎臓病の合併症のために視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭しました。941年(昭和16年)帝国芸術院会員に就任しましたが,、病状が悪化していきました。

北原は小康を得て病床に執筆や編集を続けましたが1942年11月2日、阿佐ヶ谷の自宅で逝去。57歳没。同年11月12日、叙勲(勲四等瑞宝章)。

作曲者:山田耕筰( 1886年 明治19年~1965年 昭和40年死去 79歳没)

1886年、旧福島藩士で医者、キリスト教伝道師の山田謙造の子として生まれる。10歳の時に父を亡くし、遺言により巣鴨宮下にあった自営営(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学しました。

1899年、13歳のとき、姉のガントレット恒を頼り、岡山の養忠学校に入学しました。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきを受け14歳の時、関西学院中等部に転校。在学中の16歳秋に初めての作品「MY TRUE HEART」を作曲。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科に入学し、1908年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)声楽家を卒業しました。

1910 年(明治43年)から3年間、三井財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学びました。

1924年(大正13年)には近衛秀麿と共にハルピンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰し、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立しました。
これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発しました。

黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動を共にしたため、山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。

オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起(借金は未済)。「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれました。

1930年(昭和5年)耕作から耕筰へと改名しました。1937年(昭和12年)相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に就任しました。同年6月ドイツ宣伝省の招きでドイツを訪問し、ベルリン・フィルハーモニー楽団を指揮しました。 戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任しました。

終戦後、1948年(昭和23年)脳溢血で倒れ、以後体が不自由となりましたが、1950年(昭和25年)日本指揮者協会会長に就任し、NHK放送文化賞を受賞しました。1956(昭和31年)に文化勲章も受賞しました。

1965年(昭和40年)1956年に心筋梗塞により79歳で死去。

動画

https://youtu.be/Cgt6HTZCGdQ?si=l29GLgc23iweM7Fi

まとめ

北原白秋と山田耕筰が満州の厳しい冬を背景に生み出した名曲「ペチカ」は、赤々と燃える暖炉の火や窓の外の焼き栗売りの声、そして春を待つ柳の芽といった情緒豊かな描写を通じて、厳しい寒さの中に漂う家族の温もりと静かな希望を描き出した、現代の心にも灯をともすような温かな一曲です。


Amazonn Haul
(アマゾン・ホール)つて?
低価格商品専門コーナー
・1000円以下の商品

👆アマゾンの検索バーで「Haul」とを検索して「Enter」を押すと Haulページにアクセスできます。