日本の唱歌【荒城の月】の歌詞と意味、現在まで歌われている理由を解説します

「荒城の月」は、1901年(明治34年)に発表された日本の唱歌で、作詞は土井晩翠、作曲は滝廉太郎によるものです。この楽曲は、日本の美しい風景や歴史、無常観を歌い上げたもので、多くの人々に愛されています。

また、日本の自然や歴史、感情を深く描いた唱歌であり、日本人の心に響く名曲です。歌詞とメロディを通じて、過去の記憶や郷愁を感じることができるでしょう。この曲についての詳しく説明したいと思います。

【荒城の月】の歌詞と意味

春高桜(はるこうろう)の花の宴
めぐる盃(さかずき)かげさして
千代の松が枝(え)わけいでし
むかしの光いまいずこ 照らしていた  

2 秋陣営(あきじんえい)の霜(しも)のいろ
鳴きゆく雁(かり)の数みせて
植(う)うるつるぎに照りそいし
昔の光いまいずこ

3 いま荒城のよわの月
替(かわ)らぬ光たがためぞ
垣(かき)に残るはただかずら
松に歌うはただあらし

4 天上影(かげ)は かわらねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
ああ荒城の夜半(よわ)の月

〈大意〉

1、春、城の天守閣で花見の宴が開かれ、回される盃に月光がさしていた。老いた松の枝の間
から照らした昔の光は、今どこにあるのだろう。

2,秋、月は陣営におりた霜の色。泣いて渡る雁の数が分かるくらい明るく照らしている。立て並べ刀を照らした昔の光は、今どこにあるのだろう。

3,今、荒れた城を真夜中の月が照らしている。昔と変わらぬ光は誰のためか。石垣に残るのはつる草ばかり、聞こえるのは松の枝を吹き抜ける風の音だけである。

4,空に照月は昔と変わらず、盛衰を繰り返す世の姿を知らせようとするのか。今も真夜中の月に荒 れた城を照らしている。

引用文献:唱歌の散歩道 日本人心のふるさと 石井昭示著《https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784860291853

【荒城の月】の誕生、また作詞・作曲者について

「荒城の月」は作詞:土井晩翠、作曲:滝廉太郎であります。

日本歌曲史において、「荒城の月」は創世期を代表する芸術作品として位置づけられ、数多くの演奏家によって歌い継がれてきました。『親子で歌いつごう、日本の歌百選』では、「未来に伝えたい歌」特別賞に選曲されており、唱歌として初めて出版されてから120年近く経った今も人々に親しまれ、歌われている国民的愛唱歌であります。

1901年(明治34年)に中等教育を対象とした唱歌集『中学唱歌』に収められて以来、現在まで共通教材として、取り扱われています。

作詞者:土井晩翠(1871年生~1952年死去、80歳没)

1871年(明治4年)、仙台の北鍛冶町(現在の宮城県仙台市青葉区)に、富裕な質屋の土井林七、あいの長男として生まれました。父は挙芳と号し和歌、俳諧などの文学趣味を持ち、祖母伊勢も和歌を作っていたそうです。小学生の頃から父の影響で文学に親しんでいました。祖父の「商人に学問は無用」という意向により進学を阻まれたが、家業に従事しながら英語の通信教育を受けたそうです。

後に帝国大学(現東京大学)英文科に入学し、英語の他、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語を学ぶ。帝国大学編集委員となり、詩を発表しました。
第一詩集『天地有情』を刊行。この2年前に『若菜集』を発表していた島崎藤村と共に「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」と呼ばれました。

また、1898年に東京音楽学校から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城月」(のちの「荒城の月」)を作詩[。同校がこの詩につける曲を公募し、瀧廉太郎の曲が採用され、1901年(明治34年)に「荒城の月」として発表、『中学唱歌集』に収められました。

作曲者 : 滝廉太郎(1879~1903死去、23歳没)

滝家は江戸時代、大分県の上級武士の家柄で、父吉弘は官僚として明治5年に上京し、廉太郎は長男として、東京で生まれました。父の仕事の関係で転々として、最後に大分県竹田市に移り住んだ。

小学生の時は東京で暮らし、後に故郷・大分県の大分尋常師範学校附属小学校高等科に入学した。しかし、また父の転勤に伴い、現在竹田市にある高等小学校(現在竹田市立武田小学校)へ転校しました。

当時の廉太郎は色白で背が高く都会的な少年で、卒業時にはピアノを演奏したと伝えられていますが、曲名などは不明であります。廉太郎には2人の姉がおり、ヴァイオリンやアコーディオンを習得していた際に姉が所有していたヴァイオリンに大きな興味を示し、自ら手に取って弾いていたとも言われています。

廉太郎は当時オルガンを弾くようになり、1894年(明治27年)月に東京音楽学校(現:東京芸術学校)へ入学してピアノを学び、本科を卒業して同校のピアノ科教師として勤務しながら作曲とピアノ演奏において才能を伸ばしていきました。

1901年(明治34年)に日本人の音楽家では史上3人目となるヨーロッパ留学生として出国しました。
ライプツィヒ音楽院に文部省外国留学生として入学し、作曲や音楽理論を学びました。

しかし、入学から僅か5ヶ月後の同年11月に肺結核を発病する。オペラを観劇した帰りに体調不良を訴え、風邪の症状から聖ヤコブ病院へ入院後に結核に感染していることが判明しました。入院治療を続けるも回復の見込みがなく、廉太郎は退学、帰国を余儀なくされました。

父・吉弘の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)に大分県大分市稲荷町339(現:大分市府内町)の自宅にて死去しました。満23歳没(享年25)

山田耕筰の編曲について

現在、広く演奏されている「荒城の月」は山田耕筰による編曲されたものです。耕筰は滝の原曲の「八分音符」で書かれていたのを、1小節を2小節に分けて「4分音符」に置き換えて、より厳格で風格ある作品に仕上げました。

「荒城の月」は、瀧自身による伴奏譜は現存しないとされています。音楽を愛好する人々の多くは、山田耕筰による補作編曲版のピアノ伴奏を定番として楽曲に親しんできました。現在、教師用伴奏譜として、山田耕筰の補作編曲版以外にも、現代の作曲家によるピアノ伴奏譜を掲載しています。

【荒城の月】の城について

荒城の月には故郷が三つあると言われています。それは作詞者である土井晩翠の故郷・仙台の青葉城、晩翠が初めて訪れて印象を深めた会津の鶴ヶ城、それに作曲者である滝廉太郎の故郷竹田市にある岡城址の三つです。

1、青葉城

伊達62万石の居城、仙台城(青葉城)。標高約130m、東と南を断崖が固める天然の要塞に築かれた城は、将軍徳川家康の警戒を避けるために、あえて天守閣は設けなかったといわれています。残念ながら今では城は消失し、再建された※脇櫓(わきやぐら) が往時をしのばせます。

仙台城は、宮城県仙台市にあった城で、別名「青葉城」(あおばじょう)。 1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」のあとも、徳川氏と敵対関係にあった上杉氏との戦いに備え、砦が必要となって建てられた城です。

青葉城資料展示館では、コンピューターグラフィックスによる青葉城復元映像などが見られるそうです。周囲には仙台ゆかりの詩人、土井晩翠の文学碑もあります。2003年夏、国の史跡指定を受けました。

城跡一帯は青葉山公園となっており、本丸跡からは仙台市内、太平洋を一望できます。土井晩翠銅像前では「荒城の月」の自動演奏が9:00~18:00までの30分ごとに流れます。天守台からは、100万都市仙台の夜景を楽しむことができます。

脇櫓(わきやぐら)・・・脇櫓は、仙台城の建物で、昭和6年(1931年)に国宝に指定されました。壁や柱を白漆喰で塗り込んだ総白壁造で、一部二階建の建物でした。昭和20年(1945年)の仙台空襲で焼失しましたが、昭和42年(1967年)に木造モルタル漆喰仕上げで再建されました。春には桜に彩られ、夜にはライトアップも行われています。

土井晩翠記念館》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%A9%E7%BF%A0%E8%8D%89%E5%A0%82

2、鶴ヶ城

会津若松市のシンボルである鶴ヶ城は、室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。 お城といっても当時は天守はなく、館程度でした。 その後、伊達政宗が城主となったあとは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守を築きました。

会津若松市のシンボルである鶴ヶ城。平成23年(2011)に天守閣の屋根が赤瓦に葺き替えられ、幕末当時の姿を取り戻しました。天守閣は郷土博物館となっており、会津の多彩な歴史資料が展示されています。

鶴ヶ城の桜は、明治41年(1908)会津若松市に陸軍歩兵第65連隊が設置されたのを記念し植樹されました。公園内ではソメイヨシノを中心にエドヒガン、シダレザクラ、ヤマザクラなど約1,000本が咲き乱れます。開花期間中にはライトアップも開催され、夜桜見物も楽しめます。

また、秋には紅葉を見ながらの散策も楽しめます。夜はライトアップが行われ、お堀の水面に映る様は幻想的です。

鶴ヶ城》https://www.tsurugajo.com/

3、岡城址

岡城は大野郡緒方荘(大分県豊後大野市)の武将緒方三郎惟栄(これよし)が源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられる。

岡城跡は、大野川の支流である稲葉川と白滝川が合流する舌状台地上に築かれた国指定史跡で、別名「臥牛城」「豊後竹田城」とも呼ばれます。実面積は東京ドームの22個分相当で、川岸からそそり立つ姿は「難攻不落」と言われた天然の要塞でした。

瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったと言われています。石垣に座って尺八を吹いたりして遊んだ思い出の場所だったともいわれ、明治34年(1900)に中学校唱歌として「荒城の月」を作曲、発表しました。

岡城跡は「日本百名月」に登録されており、四季折々に多くの観光客が訪れます。

岡城址》https://okajou.jp/access/

まとめ

「荒城の月」は、日本の美しい情景と歴史の哀愁を感じさせる名曲です。その詩情豊かな歌詞と旋律は、時代を超えて多くの人々の心に響き続けています。この曲を通じて、移ろいゆく季節や歴史への思いを巡らせてみてはいかがでしょうか?ぜひ一度、改めて耳を傾けてみてください。