日本の歌「花」について、また作曲者『滝廉太郎』についても時代背景とともに詳しく解説します。

滝廉太郎の「花」は、日本の四季や自然の美しさを讃える曲として、多くの人に親しまれています。それぞれの花に込められた意味や背景を紐解きながら、この作品の魅力を探っていきたいと思います。

日本音楽史上、大きな功績を残た、「滝廉太郎」についても書いてみたいと思います。

日本の歌「花」の歌詞と意味

1,春のうららの隅田川、
のぼりくだりの船人が
櫂(かい)のしずくも花と散る、
ながめを何にたとうべき。

2,見ずやあけぼの露浴びて、
われにもの言う桜木を、
見ずや夕ぐれ手をのべて、
われさしまねく青柳を。

3,錦おりなす長提(ちょうてい)に
くるれはのぼるおぼろ月。
げに一刻も千金の
ながめを何にたとうべき。

【大意】

1,うららかに晴れた隅田川。上り下りの船を漕ぐ船頭の櫂のしずくが、花のように散る。この美しい眺めは、何にたとえられようか。

2,見ましたか。朝露を浴びて、私に話しかける桜の木を。見ましたか。夕ぐれに手を差し出して、私をまねいてくれる柳を。

3,錦に織り上げた※長堤に夕闇がせまると、おぼろ月が昇ってくる。こも一刻千金の素晴らしいながめを何にたとえたら良いか。

※長堤:長い土手。ここでは、「すみだ堤」を言う。

引用:唱歌の散歩歌ー日本心のふるさと 石井昭示著よりhttps://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784860291853「花」の作詞、作曲者

日本の歌「花」の作詞者、作曲者について

この曲は、滝廉太郎の組歌「四季」の四部作の1曲目にあります。この組歌は、春夏秋冬にちなんで作曲されて「花」「納涼」「月」「雪」の四部作になっています。日本で作曲された最初の合唱曲であります。原調ではイ長調、4分の2拍子、速度はAllegro moderatoと表記されていますが、実際にはト長調で歌われることの方が多いです。

作詞者 :武島羽衣(1872年 明治5年~1967年 昭和42年死去)

明治5年(1872年)日本橋の木綿問屋に生まれました。
東京府尋常中学、一高を経て、明治26年(1893年)に東京帝国(現東京大学)文科大学国文科に入学しました。

大学在学中の明治28年『帝国文学』の創刊に関与して編集委員となり、詩『小夜帖』や文章などを発表した。『小夜帖』は日本の文芸評論家から絶賛され、これにより彼の詩人としての名声が高まりました。

明治30年(1897年)東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教員となり、後に同教授へと進んだ。尋常小学唱歌編集(作詞)委員を務めました。明治33年(1900年)に東京音楽学校の助教授であった滝廉太郎とともに、唱歌『花』を発表した。また、明治34年(1901年)には小学校国語教科書「新編国語読本」に詩を掲載しました。

その後、日本女子大学や聖心女子大学など多くの大学などで教鞭をとり、教育に尽力しました。

大正11年(1922年)から昭和21年(1946年)にかけて宮内省御歌所寄人に奉職した。昭和42年(1967年)2月3日、東京都練馬区の自宅にて94歳で死去しました。

※作曲者 滝廉太郎については『日本の唱歌 荒城の月』で掲載しましたが、同じ内容ですが、このブログでも掲載します。

作曲者 : 滝廉太郎(1879年 明治12年~1903年 明治36年死去、23歳没)

滝家は江戸時代、大分県の上級武士の家柄で、父吉弘は官僚として明治5年に上京し、廉太郎は長男として、東京で生まれました。父の仕事の関係で転々として、最後に大分県竹田市に移り住みました。

小学生の時は東京で暮らし、後に故郷・大分県の大分尋常師範学校附属小学校高等科に入学した。しかし、また父の転勤に伴い、現在竹田市にある高等小学校(現在竹田市立武田小学校)へ転校しました。

当時の廉太郎は色白で背が高く都会的な少年で、卒業時にはピアノを演奏したと伝えられていますが、曲名などは不明であります。廉太郎には2人の姉がおり、ヴァイオリンやアコーディオンを習得していた際に姉が所有していたヴァイオリンに大きな興味を示し、自ら手に取って弾いていたとも言われています。

廉太郎は当時オルガンを弾くようになり、1894年(明治27年)月に東京音楽学校(現:東京芸術学校)へ入学してピアノを学び、本科を卒業して同校のピアノ科教師として勤務しながら作曲とピアノ演奏において才能を伸ばしていきました。

1901年(明治34年)に日本人の音楽家では史上3人目となるヨーロッパ留学生として出国しました。
ライプツィヒ音楽院に文部省外国留学生として入学し、作曲や音楽理論を学びました。

しかし、入学から僅か5ヶ月後の同年11月に肺結核を発病する。オペラを観劇した帰りに体調不良を訴え、風邪の症状から聖ヤコブ病院へ入院後に結核に感染していることが判明しました。入院治療を続けるも回復の見込みがなく、廉太郎は退学、帰国を余儀なくされました。

父・吉弘の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)に大分県大分市稲荷町339(現:大分市府内町)の自宅にて死去しました。満23歳没(享年25)

夭折の天才:滝廉太郎の功績について

この歌が作られた、明治初年は、江戸時代(武士の時代)が終わり、新しい文化へ移行しようと変革の時代です。
それまでの日本の音楽と言えば、江戸時代(1603–1867年)は雅楽(日本古来の音楽や舞と、中国大陸や朝鮮半島から伝来した音楽や舞が融合して成立した芸能で、日本で最も古い歴史を持つとされています。)能楽、狂言・民謡などがが主でした。鎖国政策により海外との交流が限られていたものの、日本独自の音楽文化が豊かに発展した時代でした。代表的な音楽形式としては、以下のようなものが挙げられます。

日本の音楽史において、江戸時代から明治時代への移行期は大きな転換点となりました。この時期、日本は西洋文化との接触を深め、その中で音楽も大きく変化しました。

明治時代(1868–1912年)の始まりとともに、日本は開国し、急速な西洋化の波が押し寄せました。この時期、西洋音楽の導入は教育や軍楽を通じて広がりました。

1872年(明治5年)の学制発布により、音楽が学校教育に正式に取り入れられました。特に注目すべきは、1879年(明治12年)に文部省が音楽取調掛を設置し、西洋音楽の体系的な研究と教材の作成が進められたことです。ここでは外国人教師が招かれ、西洋音楽の理論や演奏技術が伝えられました。

また、唱歌と呼ばれる新しい音楽形式が誕生しました。これは西洋の旋律を日本語歌詞に合わせたもので、教育現場で広く歌われました。『蛍の光』や『荒城の月』といった曲がその代表例です。

西洋音楽に触発されて、日本人作曲家が登場しました。その代表的人物が滝廉太郎です。彼は『荒城の月』や『花』などの楽曲を生み出し、日本の伝統音楽と西洋音楽を融合させた作品を手掛けました。この時期、多くの作曲家が西洋音楽の技法を学びながら、日本独自の音楽スタイルを模索しました。

滝廉太郎が凄いと思うのは、現在、留学先のドイツのライプツィヒに滝廉太郎碑が設置されています。数年しか滞在できなかったドイツででも足跡を残していたのです。

1901年に文部省の要請で留学し、わずか5か月で発病してしまいます。しかし、日本の音楽史に多大な功績を残しています。彼の作品の『花』は本当は唱歌や童謡でもなく、芸術的な歌曲の一つと言われています。4曲で構成された組曲『四季』の第1曲です。このころ、早熟の天才・滝廉太郎は創作の絶頂期でした。

武家社会の江戸時代が終わり、明治時代に入って早急に皆無だった西洋の音楽を生み出すことは、
天才としか言いようがないのではと思ってしまいます。

ましてや組曲『四季』のうちのは「花」は、2声部とピアノ伴奏譜、「月」「雪」については4声部で出来ているのです。もし彼がもっと長く生きられたら、さらに素晴らしい曲を生み出していたのではと
想像してしまいます。

組曲『四季』の出版に際して書かれ序文に、このような内容が書かれていたようです。
” 最近は日本でも作られるようになったが、まだほとんどが教育用の唱歌で、程度の高い作品ではない。自分はその状況を遺憾なく思っていたので、これまでに研究してきたことの一部をここに公にする。”と書かれているようです。やはり高い志を持っていたのですね!

まとめ: 滝廉太郎という天才の輝き

滝廉太郎は、その短い生涯の中で、日本の音楽史に計り知れない影響を与えました。彼の作品は、西洋音楽の技法と日本の伝統的な旋律を見事に融合させ、今日でも多くの人々の心を打ち続けています。「荒城の月」や「花」といった楽曲には、彼の深い感性と独自の美学が刻まれており、その普遍的な魅力は時代を超えて愛されています。

わずか23歳という若さで亡くなった彼ですが、その才能と功績は後世の私たちに、音楽の力と文化の継承の大切さを教えてくれています。滝廉太郎が残した音楽は、単なる遺産ではなく、私たちが未来に向けて受け継ぎ、広めていくべき宝物です。彼の人生を振り返ることで、私たちは、逆境の中でも創造の力を信じ、新しい文化を切り開く勇気を得ることができるでしょう。