日本の唱歌「浜辺の歌」の歌詞の意味や、曲が生まれた背景など詳しく説明します。

「浜辺の歌」は、日本の唱歌の中でも特に情緒豊かで親しまれている一曲です。作詞は林古渓、作曲は成田為三によるもので、1927年(昭和2年)に発表されました。この歌は、穏やかな海辺の風景と郷愁を呼び起こす詩情あふれる歌詞が特徴です。曲調はゆったりとしていて、波の音や風のざわめきが感じられるような旋律が多くの人々の心を引きつけます。

この歌が生まれた背景には、日本人の自然への愛着や四季折々の風景を歌に込めたいという意図があったとされています。「浜辺の歌」は、単に風景を描写するだけでなく、人の心に寄り添い、深い思い出や感情を呼び覚ます力があります。そのため、学校教育や合唱の場面でも広く歌われてきました。

【浜辺の歌】の歌詞と意味

1、あした浜辺を さまよえば 、 昔のことぞ 忍ばるる。

風の音よ 、 雲のさまよ、 よする波も かいの色も。

2、ゆうべ浜辺を もとおれば、 昔の人ぞ 忍ばるる。

寄する波よ、 かえす波よ。 月の色も、 星のかげも。

この歌には、3番がありましたが、3番は作詞者(林 虎渓)の許しがでなかったということです。

【大意】

1、朝の浜辺をさ迷うと、昔のことが思いだされる。風の音、雲のようす、寄せる波、返す波、貝の色からも。

2、夕べの浜辺をうろつくと、昔の人が思い出される。寄せる波、返す波。月の色、星の光からも。

引用》唱歌の散歩道ー 日本人の心のふるさとー石井昭示著https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784860291853

【浜辺の歌】の歌詞には3番があった?

この曲には確かに3番があります。現在「浜辺の歌」の題名で知られていますが、大正2年に発行された「音楽」という誌に掲載されたのが初出掲載詩で、その時は「はまべ」でした。その詩には「作曲用試作」と付記されており、古渓は誰かに作曲されることを前提で書いたようです。その詩には3番が確かに書かれていました。3番の歌詞は次の通りです。

はやちたちまち 波を吹き、赤裳のすそぞぬれひじし 。
やみし我は すでにいえて、浜辺の真砂 まなごいまは。

「はやち」は疾風のことです。「赤裳」というのは『万葉集』では若い女性の衣装です。
女性の衣装の裾が、波で濡れてしまった。とは恋人と一緒に行った浜辺の情景を思い出して
いるのでしょうか?

「やみし我」とは、自分が病気になってしまい、「今は治癒しているが。恋人だった人はどうしているのだろうか?」という意味にも解釈できますね。どうして3番が記載されないのでしょうか。

その詩には「作曲用試作」と付記されており、古渓は誰かに作曲されることを前提で書いたようです。後に成田為三が指名されて、作曲されたました。

しかしその3番の歌詞が難解(明確な理由は不明です。)なことから、最近は削除されることが多いとのことです。3番が難解であるのには理由がありました。というのも、古渓は当初4番まで作詞していたのに、「音楽」に掲載された時に、3番の前半と4番の後半がくっつけられて、4番がなくなっていたそうです。そこで古渓は3番を記載することに難色を示したそうです。

こういういきさつで、昭和22年に「浜辺の歌」として中等音楽の教科書に2番までの歌詞で掲載された後、広く一般に愛唱されています。

【浜辺の歌】の作詞者、作曲者について

1913年(大正2年)、東京の京北中学校国漢科教師の林古渓が作詞、作曲のための雑誌「音楽」に掲載されました。これが東京音楽学校師範科の作曲課題になり、当時学生であった成田為三が作曲しました。

作詞者:林古渓(1875年明治8年 生れ~1947年昭和22年 死去)

林羅山に連なる家系で、代々学者の家柄である。林家の次男として東京神田に生まれました。
10歳の時に父を失って以来、池上本山時に入って修行。さらに哲学館(現東洋大学)に入学すると国漢(国文と漢文)を学びました。漢詩に非凡な才を見せました。一方で新しい形の詩を作ることに専念していました。卒業後は、同校付属の京北中学校で国漢科教員となり、生徒たちから慕われたそうです。

幼少時代を神奈川県愛甲郡古沢村(現厚木市)で過ごし、古渓の筆名はこの古沢村から採ったとそうです。

30歳を過ぎてから、東京音楽学校分教場や第一外国語学校でも学んでいます。東京音楽学校で学んでいたときに牛山充(日本の音楽学者)と知り合う。雑誌『音楽』は1910年に創し、牛山は在学時代からその編集に携わっており、古渓は文才を買われ、彼のためにほぼ毎月作曲用の詩歌を寄稿していました。

「浜辺の歌」は牛山充が成田為三に作曲の試作として古渓の『はまべ』の詞を勧めたそうです。

作曲者:成田為三(1893年明治26年~1945年昭和20年死去)

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)にて、役場職員の息子として生まれました。
1909年(明治42年)秋田県師範学校に入学。1913年に卒業し、現在の鹿角市十和田にある
毛馬内小学校で教鞭を一年執りました。1914年(大正3年)東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学。在学中ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受けました。1916年(大正5年)頃「はまべ(浜辺の歌」を作曲しています。

1922年(大正11年)にドイツのベルリンに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーンに和声楽、対位法、作曲法をカール・ハインリヒ・バルトにピアノを師事したほか、指揮法も習得しました。1926年(大正15年)に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行しました。

1942年に東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)の教授となりました。しかし空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開しました。

1945年(昭和20年)玉川学園の教員として迎えられたため再び上京するが、脳溢血により死去。
51歳没。葬儀は玉川学園の講堂で行われ、東京高等音楽学院と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられました。

🎵 まとめ 🎶

海に囲まれている日本に生んでいる私達は、浜辺は身近にある心のふるさとではないでしょうか?「浜辺の歌」は、その美しい歌詞とメロディーを通じて、日本の自然の風景や心の奥深くにある懐かしさを感じさせてくれる一曲です。

波の音を連想させてくれる、伴奏の調べに日常の喧騒から離れて、この歌を聴いたり口ずさんだりすることで、心が穏やかになり、豊かな気持ちになれるかもしれません。皆さんもぜひ、浜辺の風を感じるようなひとときを、この歌と共に過ごしてみてください。

海外でも楽器で奏でたり、外国語の歌詞で歌われたりしています。

英語の歌詞で素敵に歌われています!

https://youtu.be/XEtJ_QoL2Mk?si=HZDu-pePRyNRHPol

『浜辺の歌音楽館』が北秋田市にあります。https://www.city.kitaakita.akita.jp/genre/kankou/contents-6027