日本の歌「この道」の歌詞、魅力および誕生した背景などを、詳しく説明します
子どもの頃、母と歩いた道や、春風にそっと揺れる花々の景色を思い出すとき、心の中に流れてくるメロディーはありませんか?日本の歌曲「この道」は、そんな懐かしい思い出や、心に刻まれた風景を優しく呼び起こしてくれる一曲です。北原白秋の詩と山田耕筰の旋律が織りなすこの歌は、発表からおよそ100年を経た今も、世代を超えて愛され続けています。今回は、そんな「この道」の魅力や背景について掘り下げてみたいと思います。
日本の歌「この道」の歌詞
1、この道はいつか来た道
ああ そうだよ あかしやの花が咲ている
2、 あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよほら 白い時計台だよ
3 、この道はいつか来た道
ああ そうだよお母さまと馬車で行ったよ
4、 あの雲はいつか見た雲
ああ そうだよ 山査子(さんざし)の枝もたれてる
童謡詩「この道」は北原白秋が北海道旅行をして、札幌に立ち寄った時に、時計台がある北一条通りの風景の印象を詩にしたものです。
【ちょこっと参考まで】
※ 札幌の時計台はこちらに詳しく載っています》http://sapporoshi-tokeidai.jp/
※「あかしや」の花」とは》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%82%A2
※山査子とは》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%B7
一番の歌詞は、昔歩いた道を静かに懐かしく眺めている情景が思い浮かびます。二番はお母さんと楽しく語らいながら馬車で次々に景色が移っていき、楽しかったことを思い出している感じです。
また、この詩は絵画のように色彩をちりばめてもいると思います。時計台の白色に空の青色や、雲の色。アカシヤの黄色や山査子の枝についている赤い実などと、あっているかは分かりませんが、キャンパスのように、自由に描いても楽しい詩だとも思います。
日本の歌「この道」の作詞・作曲者について
「この道」の歌詞は、詩人・北原白秋の手によるものです。北原白秋は幼少期を福岡県の柳川で過ごし、その経験が多くの詩や歌に影響を与えました。「この道」も彼の幼少期の記憶や、旅の途中で見た日本の自然風景に触発されて作られたと言われています。歌詞に登場する春や夏の景色は、日本の四季を象徴的に描いたもので、多くの人にとって郷愁を呼び起こす内容です。
作曲を担当したのは、日本のクラシック音楽界を代表する作曲家・山田耕筰です。山田耕筰は、西洋音楽の技法を学びつつも、日本独自の美意識や情緒を大切にした作品を多く生み出しました。「この道」もその一例で、詩の持つ郷愁や柔らかさを見事に音楽に反映させています。
作詞者: 北原白秋(1885年 明治18年~ 1942年 昭和17年 52歳死去)
1885年年熊本県玉名郡(現 :南関町)に長男として生まれ、まもなく現在の福岡県柳川市にある家に帰りました。北原家は当時は酒造を業としていました。
1891年、矢留尋常小学校に入学。中学に進むも、成績下落で落第し、このころから文学(詩歌)に熱中するようになりました。後に父に無断で退学し、早稲田大学英文科予科に入学しました。このころには「白秋」の号を用いていました。『早稲田学報』懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになりました。
1906年新詩社に参加して、与謝野鉄幹、与謝野晶子、石川啄木らと知り合う。
※新詩社(しんししゃ)は、明治32年(1899年)に与謝野鉄幹(よさのてっかん)を中心に設立された詩歌結社で、正式には東京新詩社と呼ばれました。詩歌の革新を掲げ、浪漫主義文学の拠点となり、明治・大正の詩歌史に大きな足跡を残しました。
『早稲田学報』懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。この頃に少年時代に南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出すことになります。この頃に少年時代に南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父が亡くなったそうです。身近な人の影響は、知らない間に受けていたりするものだなあと思いました。
1937年(昭和12年)、糖尿病、腎臓病の合併症のために視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭しました。941年(昭和16年)帝国芸術院会員に就任しましたが,、病状が悪化していきました。
北原は小康を得て病床に執筆や編集を続けましたが1942年11月2日、阿佐ヶ谷の自宅で逝去。57歳没。同年11月12日、叙勲(勲四等瑞宝章)。
作曲者:山田耕筰( 1886年 明治19年~1965年 昭和40年死去 79歳没)
1886年、旧福島藩士で医者、キリスト教伝道師の山田謙造の子として生まれる。10歳の時に父を亡くし、遺言により巣鴨宮下にあった自営営(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学しました。
1899年、13歳のとき、姉のガントレット恒を頼り、岡山の養忠学校に入学しました。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきを受け14歳の時、関西学院中等部に転校。在学中の16歳秋に初めての作品「MY TRUE HEART」を作曲。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科に入学し、1908年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)声楽家を卒業しました。
1910 年(明治43年)から3年間、三井財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学びました。
1924年(大正13年)には近衛秀麿と共にハルピンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰し、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立しました。
これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発しました。
黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動を共にしたため、山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。
オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起(借金は未済)。「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれました。
1930年(昭和5年)耕作から耕筰へと改名しました。1937年(昭和12年)相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に就任しました。同年6月ドイツ宣伝省の招きでドイツを訪問し、ベルリン・フィルハーモニー楽団を指揮しました。 戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任しました。
終戦後、1948年(昭和23年)脳溢血で倒れ、以後体が不自由となりましたが、1950年(昭和25年)日本指揮者協会会長に就任し、NHK放送文化賞を受賞しました。1956(昭和31年)に文化勲章も受賞しました。
1965年(昭和40年)1956年に心筋梗塞により79歳で死去。
【白秋&耕筰】による名曲 「この道」について
「この道」の作られた経過が、『歌碑を訪ねて 日本の歌 唱歌ものがたり』〈星野辰之氏 著〉の中に書かれておりましたので、紹介させていただきます。
「この道」の初出は大正15年8月1日雑誌「赤い鳥」に発表されていました。「この道」は童謡百曲集の中にある。作曲の経緯は、大正15年6月絵絵田耕筰が指揮していた日本交響楽協会の内紛によって、母の住んでいた茅ヶ崎へ移り、そこから事務所の銀座6丁目松坂屋裏の日本交響楽協会の練習場所(新橋駅下車)までの1時間以上かかる車内でメロディーを記録して出来たこの「童謡百曲集」である。
この「童謡百曲集」は「この道」の他に「酢摸の咲くころ」「赤とんぼ」「青い鳥」「電話』「あわて床屋」「砂山」などの不朽の名作を残すことになる。
北原白秋もそうであるが、逆境に立たされた時にすばらしい仕事をしておるのは、やはり天才と言われる所以である。
白秋にとって、耕筰は大正時代の雑誌「詩と音楽」を共同出版した無二の親友であり、白秋が最も煙たがり、かつ尊敬していた一人でもあった。
と記載されていました。
この曲を歌ってみますと、確かに短いメロディーで歌詞が4番まであり、それぞれの場所が描かれています。しかし音の跳躍、休符のとり方など難しいテクニックが必要な曲だと印象があります。すばらしい芸術歌曲であると思います。
【白秋&耕筰】が生み出した他の作品
2. 「からたちの花」
- 白秋の詩集『雀の卵』に収められた詩をもとに作曲された作品。シンプルながらも深い情感を持ち、日本歌曲として高い評価を受けています。
3. 「待ちぼうけ」
- 白秋のユーモアと哲学的な要素が詰まった歌詞に、山田耕筰の軽快な曲調が付けられています。
4. 「ペチカ」
- 冬をテーマにした歌で、「ペチカ」とはロシアの暖炉のことを指します。北原白秋の異国情緒あふれる詩が特徴的です。
5. 「砂山」
- 海辺の情景を描いた叙情的な作品。白秋の詩が持つ自然の描写と、山田耕筰のメロディが心に染み渡ります。
6. 「赤い鳥小鳥」
- 鳥のさえずりを連想させる可愛らしい童謡で、子供たちにも親しまれています。
7. 「青い小鳥」
- 白秋の詩に込められた幻想的な世界観を、山田耕筰の優美な音楽が表現しています。
8. 「鐘が鳴ります」
- 作詞:北原白秋
- 作曲:山田耕筰
- 教会の鐘をモチーフにした詩と、厳かで美しいメロディが印象的な作品。
9. 「あわて床屋」
- 動物をテーマにしたユーモアあふれる童謡で、親しみやすい歌です。
10. 「城ヶ島の雨」
- 神奈川県三浦半島の情景を詩的に描いた作品。白秋の叙情性が際立つ名作です。
11. 「南の風の」
- 南国の風景をイメージさせる作品で、異国情緒を感じさせます。
12. 「叱られて」
- 子供の心理を繊細に描いた詩に、美しいメロディが寄り添う名曲です。
13. 「かやの木山」
- 白秋が自然と人の関わりをテーマにした作品で、情景描写が美しい一曲です。
14. 「月の砂漠」(※作曲は佐々木すぐるではありますが、白秋が影響を受けた時代背景を共有)
- 白秋の他の作品と共通する詩情や自然描写が感じられる作品です。
15. 「白き花の咲く頃」
- 花をテーマにした作品で、季節感と郷愁が見事に表現されています。
16. 「五木の子守歌」
- 作詞:北原白秋(編曲)
- 作曲:山田耕筰(編曲)
- 熊本県の民謡を元にして作られた作品。白秋が日本の民謡や伝統に深く関わった成果の一つです。
17. 「春の宵」
- 春の夜の穏やかな情景を詩的に表現した作品です。
18. 「お山のお猿」
- 子供向けの童謡で、親しみやすいリズムと歌詞が特徴的です。
19. 「青葉の笛」
- 日本の歴史や伝統に想いを馳せる作品で、抒情的な要素が強い一曲です。
20. 「秋の野辺」
- 秋の自然美を詩情豊かに描き、メロディがその情景を引き立てています。
これらの楽曲は、北原白秋の豊かな詩的感性と、山田耕筰の優れた作曲技術の結晶です。まだまだ多くの楽曲があり、どれも日本の音楽史に大きな足跡を残しています。
まとめ:昔の名曲を聴いてみよう🎵
「この道」は、日本人の心に深く響く情景や感情を描いた名曲です。歌詞に込められた懐かしさや愛おしさは、どの時代の人々にも共通する普遍的なものと言えるでしょう。この歌を通して、過ぎ去った日々の記憶や大切な人への想いをもう一度感じてみませんか?音楽は時を超え、私たちをつなぐ力を持っています。「この道」があなたの心に新たな感動を届けるきっかけとなりますように。