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唱歌「夏は来ぬ」の魅力とは?: むずかしい歌詞をわかりやすく説明します

蝉の声が聴こえ始め、強い日差しが降り注ぐ季節になると、なぜだか心の中にフワッと広がる、あの懐かしいメロディ。

「卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)鳴く」そう、日本の唱歌**「夏は来ぬ」**です。

この歌を耳にすると、私たちは自然と日本の美しい夏の情景を思い浮かべますよね。初夏の爽やかな風、咲き誇る花々、そして夕暮れの五月闇(さつきやみ)…。

でも、なぜこの歌はこれほどまでに私たちの心を掴み、世代を超えて歌い継がれているのでしょうか?今回は、そんな「夏は来ぬ」が持つ奥深い魅力に迫っていきたいと思います。このメロディに隠された、日本の夏の心を探しに行きましょう。

【動画】画像を見ると歌詞の意味もよくわかるので、動画を先に載せたいと思います♪

唱歌「夏は来ぬ」の作詞、作曲は誰

【作詞 :佐々木信綱】

佐々木 信綱(ささき のぶつな) 1872年(明治5年6月3日)から1963年(昭和38年12月3日)

三重県鈴鹿群石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で、国学者で歌人の佐々木弘綱の長男として生まれる。父の教えを受け5歳にして作歌する。1882年(明治15年)上京し、高崎正風に歌を学ぶ。1884年(明治17年)、東京大学文学部に進む。1890年(明治23年)、父と共編で『日本歌学全書』全12冊の刊行を開始した。1896年(明治29年)、森鴎外の『めざまし草』に歌を発表し、歌誌『いささ川』を創刊した。また、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行した。

日本の歌人・国文学者、日本学士院会員、文化功労者、文化勲章受章者。

三重県鈴鹿市には、佐々木信綱の記念館があります。資料館には、信綱の著作や遺品、生家などが展示されています。

佐々木信綱記念館➡https://www.city.suzuka.lg.jp/shisei/shisetsu/1004346/1010132/1004359/1010345.html

【作曲 :小山作之助】

小山 作之助(こやまさくのすけ)1864年(文久3年12月11日)から1027年(昭和2年6月27日)

日本の教育者・作曲家。日本教育音楽協会初代会長。

文久3年12月11日(1864年1月19日)現在の上越市大潟句潟町に生まれました。16歳で小学校を卒業した後、石油事業をしていた父の仕事を手伝うため高田町(現在の上越市)へ移り住み、夜は漢学塾に通う生活をしていました。
1880年(明治13年)家人に無断で上京し、築地大学(現在の明治学院大学)へ入学しました。その後学んだ後文部省音楽取調所(後の東京芸術大学)に入学し、勉学に励みました。小山は「品行方正学術優等」とされたため卒業まで一ヶ月六円の手当てを支給されたようです。首席で卒業した後も,教壇に立ち小山は学生の指導、音楽の研究や作曲に非常に熱心で、教え子にはのちに作曲家となる滝廉太郎らもおり、才能を見出した小山が滝にドイツ留学を勧めたとも伝えられています。
しかし1927年(昭和2年)6月、東京の自宅で執筆中に倒れ、狭心症のため死去しました(享年63)。

「日本音楽教育の母」とも謳われる小山の作曲は唱歌、童謡、軍歌、校歌など非常に多岐に亘り、総作曲数は1000曲を越えるといわれます。また唱歌は当時の国策下で「作者不詳」として発表されたものが多く、小山が生涯実際に作曲した正確な曲数は未だ不明である。

小山作之助の功績をたたえる活動

  • 郷里の上越市大潟区では、小山の生前の功績を称える活動が続けられています。母校の後身にあたる上越市立大潟町中学校には小山の胸像と宇高『夏は来ぬ』の歌碑が建立されているのをはじめ、『夏は来ぬ』の唄い出しにある卯の花は旧大潟町の花に制定されていました。
  • 2015年(平成27年)3月14日、北陸新幹線の上越妙高駅開業に伴い新幹線ホームの発車メロディとして『夏は来ぬ』が採用された。

唱歌「夏は来ぬ」の歌詞に込められた日本の情景

日本の夏を象徴する唱歌「夏は来ぬ」。そのメロディーを耳にすると、私たちは自然と郷愁に誘われます。しかし、この歌の歌詞が描く情景の奥には、単なる夏の到来以上の、豊かな日本の文化と自然への深い洞察が隠されていることをご存知でしょうか。「夏は来ぬ」の歌詞に込められた意味を紐解いてみたいと思います

【歌詞と大意】

1、卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) はやも来鳴きて
忍び音漏らす 夏は来ぬ

卯の花の照り輝くよう咲く垣根に、 ほととぎすが早くもやって来て
声をひそめて泣く初音を こっそり聞かせてくれる、 その夏は来

2、五月雨の そそぐ山田に 早乙女が 裳裾濡らし
玉苗うるる 夏は来ぬ

陰暦五月雨のが そそぐ山間の田んぼで 、 田植えする若い女性が 衣服の裾を濡らして
苗代から移す若い苗を みんなでそろって植える、 その夏が来た

3、橘の薫る のきばの 窓近く  蛍飛びかい
おこたり 諌(いさ)むる  夏は来ぬ

(白い花さく)の香っ ている 軒端の 窓近くに蛍が飛び交って いて、
怠惰を諫めることだ (怠け心に注意を与えるという)、 その 夏は来た

4、楝(おうち)ちる  川べの宿の 門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

(淡紫色の)栴檀(の花)が散る 川辺の家の門からは遠いところで 水鳥が鳴いて
夕月の月が 涼やかに照る その夏が来た

5、五月(さつき)やみ  蛍飛びかい 水鶏(くいな)鳴き  卯の花咲きて
早苗植えわたす  夏は来ぬ

旧暦五月末の闇夜に 蛍が飛交い 水鳥が鳴いており
卯の花が咲いて いて 早苗を一面に植える その夏は来た

この歌は長く明治、大正の旧女学校時代から、平成の現代まで、とりわけて女性の方々に 、歌い継がれてきた唱歌です。

作詞者佐々木信綱が学者、歌人として和歌文学を極めた人らしく、日本古典の興味を促すように書かれたのかも知れません。

第二次世界大戦後、音楽教科書に共通教材として、掲載され続けてきたために、世代を超えて歌われています。

引用文献》日本の唱歌1: 中村幸弘 著
唱歌の社会史:(永澄憲史・中西光雄・河津聖恵・野田淳子・山室信一・中西圭三
伊東公雄・佐久間順平 )著
昭和の散歩道:石井昭示 著

まとめ:唱歌「夏は来ぬ」歌い継がれる日本の夏の心

「夏は来ぬ」は単なる唱歌でなく、日本の夏を象徴する文化的な存在であることを再確認できます。
確かに時代は違っても、田植えの時期の季節を表している、初夏の情景は永遠に変わらないですね。
日本人が主食としている米の大切な作業に、感謝を込めて歌いたいと思います。

現在でもテレビCMやドラマ、アニメなどで使われたり、音楽イベントや地域の夏祭りなどで歌われることもあるので、さらに歌いつがれて欲しいと思います。